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2013年12月11日(水) [はじめての『教行信証』(その136)]

 もっと端的に、仏は「見る」ことはできず、「聞く」ことができるだけと言った方が手っ取り早い。仏の姿を見ることはできないが、仏の声を聞くことはできるということです。仏の声とは、言うまでもありません、本願のことです。あるいは「南無阿弥陀仏」です。
 ぼくらにとって今生ただいま確かなことは本願=名号が聞こえるということです。これは「きょう」のことですから、天地がひっくり返っても確かです。でも仏を「見る」のは「あした」のことですから、ひょっとしたら見ることができないかもしれません。その可能性はどこまでも残ります。
 しかし、たとえ阿弥陀仏を見ることができなくてもいいではありませんか、もういますでに「南無阿弥陀仏」が聞こえているのですから。それが「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」ということばの真意でしょう。
 ちょっと余談になりますが、鈴木大拙氏と曽我量深氏の対談を読んでいておもしろいと思うのは、大拙氏は禅者らしくものごとを大胆に言い切られるのですが、量深氏は、それはそうかもしれないが、そこまでは言えないと控えられるところです。
 例えば大拙氏は、仏は西方十万億土におわすのではなく、いまここに、われらのこころの内におわすと言うのですが、量深氏は、それはそうに違いないと認めつつも、われらがそう言うと言いすぎになってしまうとクギをさすのです。

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