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はじめての『教行信証』(その137) ブログトップ

2013年12月12日(木) [はじめての『教行信証』(その137)]

 曽我量深氏的に言うならば、「一切衆生悉有仏性」はその通りだとしても、それは仏がそう言うことであって、われらはそれを聞かせていただき有り難くいただくのみということでしょう。
 われら自身が「一切衆生悉有仏性」と言いますと、言った途端に「そんなこと言えるのか、言っていいのか」と誰かにじっと見つめられるのを感じ、何だか恥ずかしくなってうつむくしかありません。『涅槃経』が「仏性は常住であるが、しかし未来」と言うのは、そういうことです。
 さて『涅槃経』の引用のあと、曇鸞と善導の文が引かれ、最後に次のことばで真仏土巻は締めくくられます。
 「釈迦如来の真実の教えや祖師たちの注釈から明らかに知ることができます、安養浄土は法蔵菩薩の誓願が成就された真実の報土であることを。生死に惑う衆生は娑婆世界では仏性を見ることができません。煩悩に覆われているからです。『涅槃経』には、第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ることができないと書いてあります。こういうわけで知ることができます、(今生においては仏性を見ることができないとしても)浄土に至れば必ず仏性があらわれます。本願力の働きによるからです。『涅槃経』には、衆生は未来において清浄な身となって仏性を見ることができると書いてあります。」
 先回こう言いました、未来のことは分からないが、たとえ未来において阿弥陀仏を見ることができなくてもいいではないか、もうすでに「南無阿弥陀仏」の声が聞こえているのだからと。ところがここにきて「未来において〈必ず〉阿弥陀仏にあいまみえることができる」と断言されます。何か違和感があります。

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