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2013年12月15日(日) [はじめての『教行信証』(その140)]

 この書簡を読んで心に残るのは、親鸞は息子・善鸞が念仏の教えをねじまげて説いたことよりも、それをいとも簡単に受け入れてしまった関東の念仏者たちのふがいなさを嘆いていることです。誰が何と言おうと「一念もうたがひあるべから」ざるのがほんとうの信ではないかと。
 しかし「弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごとなりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからず」とはいったいどういうことでしょう。善導はそれが「人に就いて信を立つ」ことだと言うのですが、そんなことがどうしてできるのか。
 この間ある方から「ちょっと根本的なことをお聞きしますが、先生(とぼくのことを呼ばれます)は、どんなきっかけで本願他力ということを思うようになったのですか」と問いかけられました。その問いに答える形で「人に就いて信を立つ」とはどういうことかを考えてみようと思います。
 本願他力の道に入るきっかけとしていちばん多いのは、家が浄土真宗で、小さい頃から親あるいは祖父母が念仏しているのを見て育ったというケースでしょう。それに反発する場合もあるでしょうが、自然と念仏が皮膚から沁み込み、長じてその意味を家族やお寺さんから教えてもらうというのが多いのではないでしょうか。
 あるいは、家は真宗ではないが、信頼できる知り合いから親鸞の教えを聞き、親鸞に関する本を読んだり、お寺に行くようになったというケースもあるでしょう。その場合は、その知人が善知識となり、その人が信じているなら自分もという形で「人に就いて信を立てた」ということです。

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