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はじめての『教行信証』(その155) ブログトップ

2013年12月30日(月) [はじめての『教行信証』(その155)]

 十九願のポイントは「もろもろの功徳を修し」というところにあることは明らかです。だからこそ親鸞はこの願を「修諸功徳の願」と名づけたのです。ここまで『教行信証』を読んできたぼくらにとって、十九願と十八願との違いは明らかです。
 自力と他力、これです。
 十九願は「こちらから」さまざまな善を積むことにより往生しようとするのに対して、十八願は「向こうから」回向される信と行により往生できるというのです。阿弥陀仏の真意が十八願にあることは言うまでもないことですから、問題は、どうして十九願があるのかということです。
 その疑問に対して、本願他力の教えは「はなはだもてかたく」、「はなはだもてまれ」だから、方便として修諸功徳の教えを説いてくださったのだ、と親鸞は言います。しかし、どうして方便の教えなど必要とされるのでしょう。真実の教えが如何に困難で、そこにたどり着く人がまれであるにしても、それに替えて方便の教えを用意するというのは何か釈然としないものを感じます。
 方便には、理解しにくいから理解しやすいようにという親切の意味もありますが、その反面、「ほんもの」に対する「まがいもの」という意味もあります。「ウソも方便」と言いますように、真実を伝えるためにウソが必要な時もあるでしょうが、ウソは所詮ウソです。それが方便として必要だとしても、まがいものの教えやウソの教えで救われるものでしょうか。

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