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2014年1月1日(水) [はじめての『教行信証』(その157)]

 あけましておめでとうございます。「はじめての『教行信証』」は昨年の7月29日にはじまり、もう5ヶ月が経ちました。ブログ「コギト」を始めたときに遡りますと、2010年の7月25日からですので、3年5ヶ月になります。われながらよく続いたものだと思います。大向こうから「もういいかげんにしろ」という声が飛んできそうな気もしますが、もう少し続けていこうと思います。
 さて、どうして真実の願である十八願以外に十九願や二十願という方便の願があるのか、どうして『無量寿経』以外に『観無量寿経』や『阿弥陀経』という方便の経があるのか、という当然の疑問に対して、親鸞は方便の願や経にはその外面(そとづら)と内面(うちづら)があると答えるのです。外面では自力を勧めているように見えるが、内面では他力を説いているのだと。だから方便とはいうものの、決して「うそ」でも「まがいもの」でもなく、内にしっかり「ほんもの」を秘めているのだと。しかし、どうしてそんなややこしいことをしなければならないのか、端的に「ほんもの」を提示すればいいじゃないか、という思いが起こります。
 ここには考えなければならない大事なことがありそうです。
 ぼくらは少しでも不純なものが含まれていると「まがいもの」として退けるところがあります。どこまでも純粋であってはじめて「ほんもの」と考えたがります。その感覚からしますと、第十九願はさまざまな善を修めることによって往生したいと願うのですから、どう見ても純粋な他力の立場からは程遠いところにあります。だから仮の浄土、辺地とか懈慢界、あるいは疑城胎宮と呼ばれるところへ往生するとされますが、真の浄土へ往生することからすると価値のないことと考えてしまいます。「まがいもの」の浄土なんて意味がないじゃないかと思ってしまうのです。

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