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はじめての『教行信証』(その164) ブログトップ

2014年1月8日(水) [はじめての『教行信証』(その164)]

 これまで思いもしなかったことに出会ったという驚きですが、出会ったことはいま突然出現したわけではありません。ずっと昔からあったはずです。ところがそのことにまったく気づいていなかったという驚き。昔もいまも何も変わっていません、ただこれまで気づいていなかったことに気づいただけ。それがこんなにも大きな作用をすることに驚いているのです。
 そして気づきに驚いているとはいうものの、気づいていなかったこれまでを否定しているのではないことも分かります。
 これまでは無駄な人生だったとは思っていない。むしろこの気づきに至る道程として懐かしくふり返っています。いや、もっと積極的に、この気づきを準備してくれていた時間だったと喜んでいることでしょう。ここが新たな認識を手に入れることと違うところです。新たな認識(たとえば地動説)にたどり着いた人にとって、これまでの認識(天動説)は単に否定の対象でしかありません。しかし新たな気づきに至った人は、それまでの人生をこの気づきを得るための方便として肯定することができるのです。
 気づきに至った人がいまだ気づきに至っていない人に会うとき、これまでの自分の姿を見る思いがするに違いありません。そして、この人はまだ気づいていないが、いずれ気づくに違いない、そのときを待つしかないと思うでしょう。何とかして気づかせてやりたいと思うかもしれませんが、こればかりはどうにもなりません。自分の気づきを語って聞かせることはできますが、気づかせることはできません。ただ本人が気づくのをじっと待つしかないのです。

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