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2014年1月11日(土) [はじめての『教行信証』(その167)]

 「こんにちは」の声が「そのままで救われている」と聞こえる人と、ただ「こんにちは」としか聞こえない人に戻りましょう。
 「こんにちは」としか聞こえない人が「そのままで救われている」と聞こえる人に、どうしてそんなふうに聞こえるのかと尋ねても、尋ねられた側は「いや、自分にはそう聞こえるのです」としか答えられないでしょう。ですから「そのままで救われている」と聞こえるのが真で、ただ「こんにちは」としか聞こえないのは偽であると言うことはできません。
 浄土門が真で、聖道門は偽、というわけではないということです。念仏往生が真で、諸行往生は偽、でもないのです。前者は本願他力に気づいているが、後者は本願他力に気づいていないだけのことです。気づいているのが真だとしても、気づいていないのを偽ということはできません。では何と言えばいいか。そこで仮(化)ということばが登場します。いまはまだ気づいていないが、いつか気づくに違いない。いまはその途上にあるということで仮(化)と呼ばれるのです。
 「顕彰隠密」という難しいことばも、表に顕われている(顕彰)のは真実への途上にある仮の姿で、その裏には真実が隠されている(隠密)ということです。第十九願は表では諸行往生を勧めている(顕彰)が、実はその裏で真実の念仏往生を説いている(隠密)のだと。第二十願も同じことです。表では自力の念仏を勧めている(顕彰)が、本当は如来回向の念仏を説いている(隠密)というのです。
 十九願の諸行往生も二十願の自力念仏も、十八願の他力念仏への途上にある仮の姿にすぎないのです。

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