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はじめての『教行信証』(その170) ブログトップ

2014年1月14日(火) [はじめての『教行信証』(その170)]

 いつでしたか、ある方から第十八願の「十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念(十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生まれんとおもふて、乃至十念せん)」の解釈について疑問が出されたことがあります。
 親鸞は『信巻』の「三心一心問答」のところで、「至心」も「信楽」も「欲生」も、みなわれらのものではなく、如来から賜るのだと言っているが、「十方衆生、至心信楽、欲生我国」をどう読んでも、十方の衆生、つまりわれらが至心に信楽し浄土に往生したいと思う、としか読めないが、という趣旨でした。もっともな疑問だと思いますが、ここを「われらの至心」、「われらの信楽」、「われらの欲生」と読みますと、親鸞の他力思想を完全に取り逃がしてしまうことになります。
 四十八願というものの基本的な構図からしても、法蔵菩薩が至心、信楽、欲生の三心を十方衆生に授けることになるのです。
 と言いますのは、これらの誓願は法蔵菩薩が世自在王仏に向かって誓っているのです。第十八願で言いますと、われら十方衆生が自らの意思で、至心に信楽して浄土に往生したいと思うのではなく、法蔵菩薩が「十方の衆生が至心に信楽し浄土に往生したいと思う」ようにしたいと誓っているのです。その誓いが成就したのですから、至心も信楽も欲生も如来から回向された(与えられた)ものということになります。われらが自ら「至心に信楽し浄土に往生したいと思う」のではなく、そのように如来によってはからわれているということです。

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