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はじめての『教行信証』(その171) ブログトップ

2014年1月15日(水) [はじめての『教行信証』(その171)]

 さて三願転入に戻りますと、親鸞は、第十九願の要門を出て、第二十願の真門に入り、さらにはその真門を出て、第十八願の選択本願の海に入ることができたと述懐しているのですが、これをどう理解すればいいでしょうか。
 浄土の信心には三つの「段階」があって、第一段階が十九願の要門であり、第二段階が二十願の真門、そして最後の第三段階が十八願の本願海であるというように読めます。信心の位階が次第に上がっていくというイメージです。常識的で受け容れやすいと言えるでしょうが、しかし果たしてそういう理解でいいのでしょうか。
 これはどう見ても自力のイメージです。
 菩薩の修行には五十二段階あります。十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の五十二位です。これらの階段を一段一段上がって、最終的には仏の正覚に達するというのが菩薩道です。菩薩の眼は、言うまでもなく前を向いています。いま自分はどの段階にいて、次にどの段階に進まなければならないかとじっと前を見ています。
 一方、親鸞はと言いますと、本願海に帰入したあと、後をふりむいているのです。これまでの自分の歩んできた道をふりかえって、あのときには要門をくぐり、そしてあのときに真門に入った、そしてついに本願海に入ることができたのだと。
 「これから」悟りを目指すのと、「もうすでに」本願海にいることに気づくのと。
 これは単に、修行の途上にあるのと、修行を終えたのちに越し方を振り返るのとの違いではありません。自力の立場と他力の立場の違いです。

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