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2014年1月17日〈金〉 [はじめての『教行信証』(その173)]

(2)末法思想
 さて三願転入の述懐に続いて、正法・像法・末法の議論が始まります。
 「自力による悟りを説く聖道の教えは、釈迦在世の頃や正法の時代にのみ相応しいもので、像法や末法、そして法滅の時代には全く相応しくありません。聖道の教えは、像法・末法・法滅の時代にはすでに時を逸しており、その時代に生きる人々に合わないのです。それに対して浄土の真の教えは、釈迦在世の頃、正法・像法・末法・法滅を問わず、煩悩にまみれた群萠を分け隔てなく救って下さるのです。」
 まず正像末史観と呼ばれる仏教の歴史観をきちんと理解しておきましょう。仏教では、釈迦在世のときから時間が経つにつれ、次第に時代が悪くなっていくと考え、次の時代区分をします。
   正法 仏滅後500年間  「教」・「行」・「証」すべてそろう
   像法 その後1000年間 「教」と「行」はあるが、「証」なし
   末法 その後1万年間   「教」のみあり、「行」も「証」もなし
   法滅 さらにその後    「教」もなくなる
 そして、これは浄土の教えの中で説かれるようになるのですが、仏法も時代に合わなければ役に立たないという考えが生まれてきます。特に道綽がそれを強調しました。『安楽集』には「もし機と教と時とそむけば、修しがたくいりがたし」とあり、「うるほへる木をきりて、もて火をもとめんに火うるべからず、時にあらざるゆへに」と分かりやすく譬えています。どんなに優れた教えも、時(時代)と機(人間)にそむけば受け入れられなくなるということです。

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