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はじめての『教行信証』(その179) ブログトップ

2014年1月23日(木) [はじめての『教行信証』(その179)]

 真諦と俗諦。
 真諦とは「安心」の問題、俗諦とは「国家」の問題です。肝心なのは前者であって、後者については世の中の動きに従うべきだ、これが教団のとった対応でした。信心さえあれば、戦争に協力するのは差し支えない、と。
 しかし信心さえあれば、何をしたっていいということにはならないと思います。ほんとうの信心があるならば、そこには自ずからしていいことと、してはいけないことの境界ができてくるはずです。
 「本願ぼこり」の問題と同じです。本願を聞くことができて救われたのだから、もう何をしてもいいのだという跳ね上がった考えが「本願ぼこり」ですが、考えてみますと、こんな考えが生まれてくるのは、ほんとうに救われたという実感がないからです。
 ほんとうに「こんな自分が救われた」という喜びがあれば、そこから「よし、では悪いことをどんどんしてやろう」などという思いが生まれてくるはずがありません。できるだけ悪いことをしないように努力しようと思うに違いありません。
 同じように、「ああ、救われた」という喜びがあれば、率先して戦争に協力しようという思いが湧いてくるでしょうか。世の中平和でありますようにという願いが生まれてくるはずです。政府からの圧力もありますから、大っぴらに平和の旗を振るのは難しいかもしれませんが、少なくとも戦争の旗を振らないようにすることはできるでしょう。
 親鸞は決して原理主義者ではありませんから、仏教徒たるものすべからく平和主義者たるべしとは言わないでしょうが、できることなら平和であれかしと願うはずです。

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