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「生きていてよかった」 [生きる意味(その6)]

(3)「生きていてよかった」
 ぼくらは日々の細々したことにささやかな嬉しさを感じます。旅先でのおいしい食事や宝くじの大当たりなどでなくても、もっと些細なこと、例えば庭先の菜園にきゅうりが育っていることに気づいて嬉しくなります。これらはすべて生活することの嬉しさです。
 でも「生きる意味」ということで問題になるのは、そうした生活することの嬉しさではなく、その前提条件としての生きていること自体の嬉しさではないでしょうか。この生きていることの嬉しさは自分では調達できません。他者が必要なのです。
 菜園のきゅうりを収穫する嬉しさに他者は必要ありません。自分で栽培し自分で収穫する嬉しさです。でも、そうした日々の些細な嬉しさを支えてくれているのが生きていることの嬉しさで、それはどう頑張っても自分では収穫できないのです。
 生活することをもっと簡単に「する」と言いましょう、そして生きていることを「いる」と。そうしますと、「する」ことの嬉しさには他者の必要はなくても、「いる」ことの嬉しさには是非とも他者が必要だということです。
 「する」ことと「いる」こと。英語で言えば、“do”と“be”です。この世でさまざまなことを「する」ためには、この世に「いる」ことが必要です。「いのちあってのものだね」ということばがありますが、その意味の「いる」ことが、この世で何事を「する」にせよ、その前提条件となっています。
 「生きる意味」とは生きていることの嬉しさだと言いましたが、その場合の生きているというのは、この世に「いる」ことを指しています。決して個々の「する」ことではありません。ですから、生きていることの嬉しさとは、個々の「する」ことの嬉しさではなく、この世に「いる」ことの嬉しさのことです。

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