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「する」と「いる」再論 [生きる意味(その11)]

(8)「する」と「いる」再論
 ごもっともです、普通はこんな区別はしませんからね。そこで、ちょっと時間をいただいて、どうしてこんなややこしい区別をするのかについてお話しさせてください。
 ぼくらが生きているということは、何かを「して“do”」いるということです。ぼくは今自分の部屋でパソコンのキーボードを叩いていますが、その前は家の近くを散歩していました。こんなふうに、いつも何かをしています。何もせずじっとしているようでも、意識がある限り何かをしています。
 部屋の中でじっとしていても、頭の中で何かを思っているでしょう。思うということをしているのです。意識が働いていない時、例えば寝ている時は何もしていません。寝返りを打ったり、夢を見るといったことはありますが、それは何かをしているとは言わないでしょう。
 としますと、起きている時(意識が働いている時)が“do”で、寝ている時(意識が働いていない時)が“be”ということでしょうか。いえ、そうではありません。起きている時も「する“do”」と同時に「いる“be”」のです。「いる」からこそ、何かを「する」ことができるのですから。「いる」ことは、何かを「する」ことの前提条件です。
 「いる」ことは、ありとあらゆる「する」ことの前提条件として欠かせないということは、少し前のところでも言いましたが、「いのちあってのものだね」という場合の「いのち」に当たるものです。「いのち」があるからこそ、ぼくはキーボードを叩けるし、散歩にも行けるし、ぼーっともの思いにふけることもできるのです。「いのち」がなくなってしまったら、もう何も「する」ことができません。

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