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カンバスとしての「いる」 [生きる意味(その15)]

(12)カンバスとしての「いる」
 カンバスとしての「われ」がいるからこそ、絵の中の「われ」がいることができる。
 さて問題は、本当にカンバスとしての「われ」がいるのかということです。そんな不安が兆したらどうすればいいのでしょう。絵の中の「われ」にはカンバスとしての「われ」という後ろ盾がありますが、カンバスとしての「われ」にはどんな後ろ盾があるのか。そんなものは何もないのではないか。
 「いる」ことは、「する」ことのすべてが可能となる<場>でした。それをここでは、「いる」ことは、すべての「する」ことが描き込まれるカンバスだと表現しました。さて、そのカンバスそのものが透明になる不安が生じたら…。
 デカルトは、何かを「する」ことの確かさ、そして何かを「する」自分の確かさを明らかにしてくれましたが、それらを支えているはずの「いる」ことの確かさ、「いる」自分の確かさについては何も言ってくれません。「する」ことには「いる」ことという後ろ盾がありますが、「いる」ことにはもう後ろ盾が何もないのです。
 ユークリッド幾何学には公理があります。「三角形の内角の和は180度である」のようなものを定理と言いますが、そうした定理を証明する作業を続けていきますと、もうこれ以上は遡って証明できないという所に行き着きます。それを公理と言いますが、公理にはもう後ろ盾が一切ありません。それはただ与えられています。この与えられた公理を安心して受け入れられれば、もう何も問題はありません。すべての定理は意味を持ち、磐石の幾何学体系が聳え立ちます。
 でも、この公理が本当かどうかに不安が兆したら…。

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