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欠如を満たしてもらってはじめて完結できる [生きる意味(その28)]

(25)欠如を満たしてもらってはじめて完結できる
 人は誰かに「いる」ことを認めてもらって、はじめて自分の「いる」ことに安心できるのではないかと言ってきました。これは、ぼくらには欠如があり、それを誰かに満たしてもらってはじめて完結できる、ということです。
 この「欠如を満たしてもらう」という言い回しで思うのは「恋の切なさ」です。ぼくはもう初恋のレモンの味を忘れつつありますが、高校生たちを見ていますと、付き合っている相手がちょっと連れないそぶりをしたからといって、すぐ涙、涙です。「よしよし」と慰めながら、そういえばぼくにもそんな時代がと思い起こしています。
 さてプラトンという哲学者はこの恋の切なさをうまく説明してくれます。
 「昔々、人間は男と女が背中合わせに合体しておって球体だったそうじゃ。手が4本、足も4本あるもんじゃから、急ぐ時はそれらを次々繰り出してゴロゴロ転がるように進んだそうな。その名をアンドロギュノスと言う。ところがアンドロギュノスどもがあんまりわがままな振る舞いをするもんじゃから、オリンポス山の主神ゼウスが怒って彼らをスパッと真っ二つに切り離したんじゃ。切り離した後、切り口をふさぐために皮膚を四方から引っ張って真ん中で結わえた。それが“へそ”じゃ。さて、あわれにも二つに切り離されたアンドロギュノスは、元の球体に戻ろうとして自分の分身を求めてさまよい歩く。分身が見つかるまでは昼も夜も心の休まることなく、物狂おしく求め続けるんじゃ。これが恋というやつじゃよ。」(プラトン『饗宴』より脚色)
 どうです、なかなかのものでしょう。神話的な説明ではありますが、恋の狂おしさをよく説明してくれていると思います。

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