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話し合いは無意味ではない [生きる意味(その41)]

(12)話し合いは無意味ではない
 「どうして君は右を取るんだ?」の問いに対して、「そんなことはきみには関係ない」と話し合いを拒否することはありません。繰り返しになりますが、「ぼくは右を取るよ」は「きみも右を取るべきだ」と言外に言っているからです。そう言っているということは、「どうして右なんだ?」という反論を予想しているということで、その反論に対して「きみには関係ない」はないでしょう。
 まとめましょう。
 「何のために生きるか?」という問いは、それぞれの人がそれぞれの状況で自分の答えを出すしかありません。便利な公式はないということです。つまり誰にも当てはまる答えはないということになります。でも、だからと言って「何のために生きるか?」について話し合うのが無意味だということにはなりません。ありもしない公式を探し求めるのは無意味ですが、具体的な状況の中で「右の道を取るべきか、左の道を取るべきか」を話し合うのはごく普通のことです。
 息子が「大学に行こうか、専門学校に行こうか」を迷っている時、家族みんなで話し合うのはありふれた光景です。最後に決断するのは息子だとしても、家族みんなが「ぼくならこうするな」「わたしならこうするわ」と言いあうことは有意義なことでしょう。
 「生きる意味」は人それぞれか、について考えてきました。で、まず「生きる目的」は人それぞれだ、という結論になりそうです。「何のために生きるか?」に一般解はないということですが、では、もう一方の「生きる価値」はどうでしょう。これも同じように人それぞれでしょうか。

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