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意識は誰かの所有物か? [生きる意味(その48)]

(19)意識は誰かの所有物か?
 では、「大きな木が涼しげにそよいでいる」の絵で、「する」ぼくはどこにいるのでしょう。絵の中に登場しない限りどこにもいません。
 「でも、“大きな木が涼しげにそよいでいる”のをきみが“見ている”のは確かだろ。“痛い!”ときみが“感じている”のも間違いない。“する”きみがいるじゃない?」
 「いや、大きな木が“見えている”が、ぼくが“見ている”のではない。“痛い!”と“感じられている”のは確かだが、ぼくが“感じている”のではないんだ。」
 こういうことです。「大きな木が涼しげにそよいでいる」のがぼくという<場>で「見えている」のです。しかし、「ぼくが」それを「見た」瞬間に「ぼくは大きな木が涼しげにそよいでいるのを見ている」になり、絵の中にぼくが登場してきます。
 ぼくという<場>で「痛い!」と「感じられて」いるのです。しかし、「ぼくが」その痛みを「感じた」瞬間に「ぼくの膝に痛みが走った」となって、絵の中でぼくが顔をしかめることになります。
 ぼくという<場>と言ってきたのが、「いる」ぼくのことだということはお分かりいただけると思います。ぼくという<場>がなければ、「大きな木が涼しげにそよいでいる」こともありませんし、「痛い!」こともありません。
 そよいでいる木が見えている以上、それがぼくという〈場〉で起きているのは間違いありませんが、ぼくはそよいでいる木と一緒に視野の中にいるのではないのです。ところが、どうかすると画面の中にぼくが登場してきて、主体としてのぼくと客体としての木が向かいあいます。そしてカメラとしてのぼくの心にそよいでいる木が写し取られる。
 こうして、涼しげにそよいでいる木はぼくの所有物となってしまいます。

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