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痛みはぼくの中に閉ざされていない [生きる意味(その46)]

(17)痛みはぼくの中に閉ざされていない
 「文がどうだの、絵がどうだのと、一体何が言いたいのさ?」 
 「ごめん、ごめん、ちょっと本筋が見えにくくなったかもしれないね。あのね、痛みはそれぞれの人に閉じられていて、他人は近づけないとよく言われるけど、本当にそうだろうかと考えているところだよ。それを、日常使うことばはどうなっているんだろう、絵に表すとどうなるだろう、というように考えてみた訳さ。」
 ぼくの心という秘められた世界があって、その中に痛みが閉じ込められているとしますと、誰もそれに近づくことはできません。でも、「痛い!」という出来事をよく見てみますと、そこにぼくはいないことが分かります。大きな黒い星があるだけです。
 それが「ぼくの左膝に激痛が走った」となって絵の中にぼくが登場してきますと、ぼくは明確な線でぼく以外の世界と区画され、どうやらその中に心というものがあって、そこに痛みがあるらしい、ということになってくるのです。こうなるともう痛みの「秘私性」から逃れられなくなります。
 「ぼくの左膝に激痛が走った」の絵になる前の、「痛い!」の現場に戻りましょう。突然痛みに襲われた。痛いのは紛れもなくぼくですが、ぼくが痛みをキャッチしたのではありません。痛みがぼくをキャッチしたのです。ぼくは「痛い!」という出来事が起こった<場>にすぎません。ぼくは大きな黒い星が描かれるカンバスにすぎません。
 その時痛みはぼくの心の中に閉ざされているでしょうか。いえいえ。大きな黒い星としてみんなの前に描かれています。それを見て誰でもそこに痛みがあることを知ることができるのです。

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