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世界が悲しい! [生きる意味(その51)]

(22)世界が悲しい!
 他人の心との間につながりが感じられた時、ぼくらの心は温かくなるのですが、そこでは自分とか他人とかは消えてしまって、つながりだけがポカポカ温かい。悲しみも、他人が悲しいのでも、自分が悲しいのでもなく、いわば「世界が悲しくなる」のではないでしょうか。目の前が真っ暗になると言いますが、これは世界が悲しみに閉ざされ真っ暗になるということでしょう。「山河慟哭」といういいことばがあります。悲しい時は、山が激しく慟(な)き、河が声をあげて哭(な)くのです。
 ぼくにも何度かそういう経験があります。中でも忘れがたいのが、生まれたばかりの子供を亡くした時です。未熟児で生まれ、すぐ保育器に入れられたのですが、看護のかいもなく、三日後に亡くなってしまいました。身近な者たちだけが集まって、病院で簡素な葬式をあげたのですが、そのあと小さな棺おけを風呂敷に包んで(それほど小さいのです)タクシーで火葬場に行こうとしました。ところが、運転手に脇の荷物を見とがめられ、「それは何ですか?」と聞かれたものですから、やむなく「お棺です」と答えると、「降りてくれ、縁起でもない」と乗車拒否されました。仕方なく歩いていくことにしましたが、ぼくの体が揺れる度に、中の亡がらがお棺のなかで右に左に転がるのです。その時ぼくは無性に悲しかった。子供がかわいそうでもあるし、自分がかわいそうでもある、いや世界そのものが悲しみに閉ざされ、ぼくの目から涙がひとりでに流れてきました。 
 全てが終わって、一人でアパートに戻ってから、ぼくはもう一度悲しみに包まれました。押入れをあけると、そこに赤ん坊のおしめや産着がきちんとたたまれてありました。それを見たとたん、ぼくの目から涙がとめどなくあふれてきました。ぼくは極度に混乱しながら、これらのおしめや産着が妻の目に触れてはならないと思い、全部ゴミ袋に詰め込んでいました。

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