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分かってたまるか! [生きる意味(その52)]

(23)分かってたまるか!
 「生きる意味なんて、あると思う人にはあるし、ないと思う人にはないんだから、人それぞれさ」という思いがどこから生まれてくるかを考えてきました。で、「痛み」や「悲しみ」を取り上げたのですが、「痛い!」のはぼくであり、「悲しい!」のはきみだとしても、「ぼくの痛み」や「きみの悲しみ」がある訳ではないと言ってよさそうです。
 ところが「痛み」や「悲しみ」はぼくやきみのもので、ぼくやきみの中にあるとする抜きがたい思い込みがあります。これは一体どこからくるのでしょうか。
 デカルトの「われ思う、故にわれあり」がその思い込みの原点だという言い方をしましたが、もちろんデカルトがその思い込みを作り出したのではありません。「われ思う、故にわれあり」は、その思い込みに哲学的根拠を与え、その結果として疑うべからざる確信へと磨き上げたという点で原点なのです。
 ぼくらは、自分が「痛い!」こと、自分が「悲しい!」ことを誰かに分かってほしいのに、その一方で「この痛みは誰にも分からない」と思い、「この悲しみは所詮ぼくの悲しみだ」と言います。誰かが「きみの痛みはよく分かるよ」と言うと、「この痛みが分かってたまるか」と思い、誰かが「きみの悲しみはよく理解できるよ」と言うと、「ぼくの悲しみがどうしてきみに分かるんだ」と思ってしまうところがあります。これは考えてみると不思議です。
 ぼくがどれほど痛い思いをしているかを医者に分かってもらえないと大変です。だから医者には必死に訴えるのに、友人から「痛そうで可哀想だね」と言われると、「きみにこの痛みが分かる訳ないよ」などと言ってしまう。「あなたの悲しみはわたしも同じような経験をしましたからよく分かりますよ」と同情されると、「わたしの悲しみがあなたの悲しみと同じ訳がない」と思ってしまいます。

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