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シマウマとサケ [生きる意味(その60)]

(31)シマウマとサケ
 もう少し「心」にこだわりたいと思います。
 こんなことを考えてみましょう。ぼくらはライオンに襲われるシマウマを見て可哀想だと思いますが、熊に食べられるサケに哀れさを感じることはあまりありませんね。あるいは蛙が長い舌を繰り出して小さな虫を捕らえるのを見て、蛙の舌の動きに驚嘆しても、食べられる虫のことは何とも思いません。命が奪われるという点では何も変わらないのに、どうしてこんな違いが生じるのでしょう。
 サケが熊に食べられたり、虫が蛙に飲み込まれたりするのは、木の葉がハラハラ舞い落ちるのと同じような事実、ただの「出来事」だと感じるからです。起こるべくして起こったことだと感じるから、可哀想という感想の入る余地がないのです。それに対して、ライオンに襲われるシマウマを可哀想だと思うのは、それをただの出来事とは思えず、「行為」と見るからです。
 後方からライオンが迫ってきた。一目散に逃走するか、そんなことをしても無駄だからそのままじっとしているか。よし、全力疾走で逃げよう。うまくいけばライオンの矛先をかわすことができるかもしれない。ところが、必死の逃走も空しく、ライオンに追いつかれて…。
 そんな目でシマウマを見ている時、可哀想という感情が起こります。逆に、もしシマウマがライオンの餌食になるのを起こるべくして起こった出来事と見ることができれば、木の葉がハラハラ舞い落ちるのと同じで、可哀想などという感情は起こらないでしょう。屠殺場に引かれていく牛を見ても、哀れとは感じないでしょう。

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