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出来事と行為 [生きる意味(その61)]

(32)出来事と行為
 ぼくら人間の場合も、過去の行為はもう取り返しがつかない出来事なのに、それでも頭をかきむしって悔やむのは何故でしょう。後悔というこの現象はどう考えても不合理です。何故そんなことをするかと言えば、もう取り返しがつかないことなのに、それをまだ生々しい行為と感じるからです。
 シマウマを行為の主体と見るように、過去にタイムスリップしてその時の自分を行為の主体と見ているから、実際にしてしまったのとは違う可能性を思い浮かべて「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」と後悔するのです。ですから、過去の行為を、起こるべくして起こった出来事と見なすことができさえすれば、後悔とは無縁に生きることができるはずです。
 さて、出来事には必ず原因があります。というより、ぼくらは出来事には原因があるという前提でものごとを見ています。それは帰納的に得られた結論ではなく、ぼくらはあらかじめその見方に立って出来事を見ているのです。しかし、ぼくらが行為をする時は自由です。どんな原因にも縛られていません。
 行為は「無からの創造」です。ぼくは今パソコンの“S”のキーを叩きましたが、その行為はぼくが無から創造したものです。しかし、原因がないとか、無からの創造という発想はなかなか馴染めないものですから、その代わりに心が登場してくるのではないでしょうか。行為は心によって生み出されると。

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