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「心はやはりつながりあっている」 [生きる意味(その64)]

(35)「心はやはりつながりあっている」
 「犬や猫に心があると思えるのは、主人の働きかけに反応するからだね。何も反応しないのでは“木偶の坊”だ。そう言えば、前に話題にした透明人間や幽霊も同じだね。彼らはどんなに一生懸命反応しても見えないから反応したことにならない。」
 「そうそう。心はどこかに“ある”ものじゃなく“届く”ものなんだ。ぼくの心がロボット君に届き、ロボット君の心がぼくに届いてはじめて彼にも心があると言える。ぼくに届かなければ、ロボット君に心はないと言わざるを得ない。だからロボット君を分解してその内部をどれほどいじくっても心があるかどうかは分からないよ。」
 「でも、ひょっとしたらそのロボット君、ぼくらには感じられないが、生みの親にだけ分かる反応をしているのかもしれないよ。見えない涙を流すとか。」
 「とすれば、生みの親の科学者とは心が通い合っていることになるね。」
 どうでしょう、心はやはりつながりあっているようです。心は単独でどこかに「ある」のではなく、つながりあい通い合ってはじめて「ある」のです。
 釈迦が「縁起」ということばで言おうとしたのは、このことではないでしょうか。「これあるとき、かれあり、これ生ずるによりて、かれ生ず。これなきとき、かれなく、これ滅するによりて、かれ滅す」と古い仏典にあります。何ひとつとして、それだけで「ある」ことはできず、他のものとのつながりの中ではじめて「ある」のです。

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