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「生きる意味」にぼくもきみもない [生きる意味(その68)]

(39)「生きる意味」にぼくもきみもない
 もともと心は誰のものでもありません。「ぼくの心」や「きみの心」がある訳ではないのです。同じように「生きる意味」(生きる喜びのことです)も、もともと誰のものでもないと言えるのではないでしょうか。「ぼくの生きる意味」や「きみの生きる意味」があるように思えるのは、誰のものでもない「生きる意味」を柵で囲い込むからです。
 「生きる意味」を柵で囲い込むというのは、「生きているっていいなあ」という喜びを自分だけのものとして確保しようとすることですが、どうしてそんなことをしなければ生けないのでしょう。
 土地に囲いをして「これは俺のものだ」と宣言するのは、そこに自生している木の実を誰かに侵害されないようにすることです。この木の実は採るなよ、と言っているのです。これまで木の実は誰のものでもなく、みんな必要に応じて採っていたのに、ふと不安が兆した、自分が必要なだけ手に入るだろうか、と。必要なだけ手に入るという安心があれば、何も柵で囲って世界を狭める必要なんかありません。広い世界を堂々と渡り歩けばいいのです。
 生きる喜びも同じでしょう。みんなと一緒に喜びの木の実を摘み取るのではなく、「これはぼくの喜びだ、誰も手を出すなよ」などと囲い込むのは、喜びが欲しいだけ手に入るだろうかと不安になったからです。みんなで手を取り合って「生きているって素晴らしい」と喜べばいいのに、「これはぼくの生きる意味」、「あれはきみの生きる意味」などと互いの所有権を主張し合うのは、生きる喜びに不安が兆したからに違いありません。

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