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「知る」と「感じる」 [生きる意味(その84)]

(15)「知る」と「感じる」
 普通、「生きていることに意味があると〈感じられる〉」と言い、「生きていることに意味があると〈知っている〉」とは言いません。ところが、「三角形の内角の和は180度である」ことは「知っている」と言い、「感じられる」とは言いません。「知っている」と「感じられる」とはどう違うのでしょうか。
 取りあえずこんなふうに言えるでしょうか、「知る」は間接的だが、「感じる」は直接的だと。
 「三角形の内角の和は180度である」ことを「知っている」場合、「三角形の内角の和は180度である」ことと「知っている」ことの間には<すきま>がありますが、「生きていることに意味がある」ことと「感じられる」ことはべったりくっついています。
 <すきま>と言いますのは、何かを「知る」ためには、いくつものステップを踏まなければならないということです。「三角形の内角の和は180度である」を小学生に知ってもらおうと思ったら大変です。いろいろな三角形をノートに書かせて、それらの内角を測らせなくちゃなりません。中学生の段階になりますと、どうしてそうなるかを知ってもらうために証明という作業が必要になってきます。
 ところが、「感じる」には、「どうして?」が入り込む<すきま>がありません。有無を言わさずです。「今日は暑いね」に、「どうして?」は変です。あるいは「2+3=5」を小学生に教えようとする時、「どうして?」と言われても困ってしまいます。これは、もう感じてもらうしかありません。指を使うにしても、それは説明と言えるものではなく、感じてもらうための手がかりに過ぎません。

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