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“look”と“see” [生きる意味(その85)]

(16)“look”と“see”
 こんなふうにも言えるでしょう、「知る」は能動的だが、「感じる」は受動的だと。
 ぼくらが何かを「知る」ことは、例えばカンバスに絵を描くという制作です。あるいは、カメラで、あるアングルを切り取ってくるという操作です。絵画や写真が作品と呼ばれるとすれば、知識も一種の作品でしょう。ぼくらはさまざまなモノを「創る」という制作しますが、それ以前に「知る」という制作をしているのです。
 それに対して「感じる」は受動的です。あることが「感じられる」時、ぼくらがカンバスに絵を描いているのではなく、気がついたらもうすでにカンバスに絵が描かれているのです。
 今ぼくの目の前に見事な桜の老大樹があります。太い幹から出た力強い腕が、まだ固い蕾をたくさんつけた無数のか細い指を、抜けるような青空に向かって精一杯伸ばしています。そしてそのか細い指たちは風を受けて小刻みに震えています。
 こんなふうに桜の大樹がその堂々とした姿を現しているのと同時に、それを窓越しに眺めているぼくがいます。ぼくはコーヒーを飲みながらその老大樹を惚れ惚れと見とれているのです。
 よく知られていますように、英語では“look”と“see”をはっきり使い分けます。「ぼくが桜の老大樹を見る」は、“I look at an old cherry tree.”で、“I see an old cherry tree.”ではありません。後者は「桜の老大樹が見える」でしょうか。
 前者は、ぼくがある意図を持って(例えばその姿をカメラに収めようとして)桜の老大樹を見るのですが、後者は、老大樹自身が否応なしに目に入ってくるのです。

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