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「われ思う、ゆえにわれあり」 [生きる意味(その88)]

(19)「われ思う、ゆえにわれあり」
 デカルトがそのネガティブな認識論から得た結論が、これまで何度も話題にしてきました「われ思う、ゆえにわれあり」です。
 「われ思う」―ここに近代精神の本質があります。すべてを認識に基づけようとする精神です。デカルトは神からスタートすることを拒否しました。神の存在を前提とすることを拒否したということです。彼がすべてを疑おうとしたというのはそういうことです。
 そしてすべてを疑いつくした果てに彼が見出したのは「われ思う(これをラテン語で“cogito”と言います)」でした。すべての存在が疑わしいとしても、すべての存在を疑っていること自体は紛れもない事実です。
 デカルトはそこからすかさず「われあり」と結論しますが、ここには微妙で、しかし決定的な<飛躍>があります。「われ思う」と訳された“cogito”は「思う」という動詞で、主語の「われ」は省略されているのです。ラテン語は主語を省略しますが、このこと自体近代と前近代の違いを示唆しているのではないでしょうか。
 前近代では「われ」という主語は述語の中に黒子として隠れていたのに、近代はその隠れていた黒子を舞台の真ん中に立たせたのです。“cogito”が“Je pense”(英語ですと“I think”です)となり、“Je(われ)”にスポットライトが当たることになったのです。
 存在を「われ思う」によって根拠づけようとしたデカルトは、理性はどのようにして存在を知ることができるかを明らかにしようとしたカントを準備したと言えます。こうして近代哲学の方向性が決定されることになりました。すべてを「われ思う」から考えていこうとする方向性です。

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