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存在は認識に先立つ [生きる意味(その89)]

(20)存在は認識に先立つ
 この方向性は、一方に認識する「われ」、他方に認識される「存在」というように主体と客体を分離せざるを得ません。いわゆる物心二元論です。
 その後の近代哲学の努力はこの二元の間をどう架橋するかという点に注がれることになるのですが、これはしかし、そもそも無理な試みと言わざるを得ません。精神と物体という全く異質の二元を架橋するなんて土台不可能です。カントの「物自体」は、そのことをあらかじめ率直に表白していると言えます。
 「われ思う」からものごとを考えていこうとする方向性を徹底すれば、フィヒテやヘーゲルのように「物自体」を消し去るしかありません。すべてを「われ思う」の内部で処理してしまうしかないのです。
 「認識から存在へ」という近代的発想を、「存在から認識へ」という方向に戻せないでしょうか。「目の前に桜の老大樹がある」からスタートするのです。「ぼくが桜の老大樹を見る」からではなく、「桜の老大樹が見える」からスタートするのです。素朴実在論と言われようが、気がついたらもうすでに目の前に老大樹が存在しているのは疑いようがないのですから。
 サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いましたが、もっと一般的に「存在は認識に先立つ」と言えるのではないでしょうか。サルトルの場合は、実存すなわち人間だけがまずもって存在し、しかる後に自分が何者であるかを知ろうとするのですが、人間のみならず、あらゆる存在が認識に先立つと言うことはできないでしょうか。

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