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存在が「感じられる」 [生きる意味(その91)]

(22)存在が「感じられる」
 「気がついたら」と言いました。とすると、存在そのものが姿を現していると同時に、それに気がついている自分がいるはずです。またもやここでも見る自分と見られる世界という認識論的構図が働いているのでしょうか。いや、そうではありません。自分が存在そのものに気がつくのではなく、存在そのものが存在そのものに感じられているのです。
 前の対比をもう一度持ち出しますと、存在を「知っている」と、存在が「感じられる」。前者では「知っている」と存在との間に<すきま>があって、ぼくが存在を「知っている」。後者では「感じられる」と存在との間に<すきま>がなく、存在が存在自身に「感じられる」。こんなところでしょうか。しかし存在が存在自身に「感じられる」というこの言い回し、何だかものごとを神秘化しているだけのような気もします。
 「そう。存在が存在自身に感じられているなんて言うけど、存在が存在に感じられているようにきみが感じているだけじゃないの?だから結局きみが存在を感じているんだよ。」
 「うーん。どう言えばいいのかな。確かに“感じられる”ことは、ぼくという<場>で起こっているよ。だからこそ、他ならぬこのぼくが“存在が存在自身に感じられている”と言っている。でも<ぼく>が存在を感じているのではない。」
 「そこなんだな。その持って回った言い方がどうも気になるんだ。“存在が存在自身に感じられている”ことをきみが証言するというやり方がね。どうしてもっとすっきり“ぼくが存在を感じる”って言わないのかね。」
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