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うすうすは気づいているのだが… [生きる意味(その96)]

(27)うすうすは気づいているのだが
 さらに、同じことですが、「生きる意味」には主体も客体もありません。「ぼく」が「生きる意味」を感じるのではありません。「生きる意味」がぼくという<場>で感じられているのです。
 前にこう言いました。ぼくが桜の老大樹をほれぼれと見とれている時、ぼくが老大樹を見ているというよりも、老大樹が老大樹自身を見ほれているのだと。そんな妙な言い方を許していただけるのなら、ぼくが「生きる意味」をしみじみと噛みしめている時、ぼくが「生きる意味」を感じているというよりも、「生きる意味」が「生きる意味」自身を味わっているのです。
 さあこれで、「あんたは“生きる意味”を感じているかもしれないが、わたしには感じられないよ」という女子高生の問いに答えられるでしょうか。今のところ取りあえず、こう答えておきましょう。
 「ぼくに“生きる意味”が届いているから、きみにも届いていないはずはないんだが、きっと何かが邪魔をして、きみはそれに気づいていないのだろうな。いや、きみ自身うすうすは気づいているんだ。気づいているんだけど、素直にそう言えないだけじゃないだろうか。」
 章を改めてさらに考え続けたいと思います。

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