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どこかに「ある」真理を「自分のものにする」 [生きる意味(その101)]

(5)どこかに「ある」真理を「自分のものにする」
 これは後に「中道」の教えとしてまとめられます。解脱は、一国の王子としての快楽の道でも森の中の苦行の道でもなく、その中道にあるのだと。それはまあその通りでしょうが、ぼくはもう一歩踏み込んで考えたいと思うのです。
 釈迦はどこかに「ある」はずの真理を手に入れようとしたのではないでしょうか。この、どこかに「ある」真理を「手に入れる」というのがクセモノです。手に入れるということは、「自分のものにする」ということです。自分のものとして「所有する」ということ。
 ここに何か根本的な錯誤があるのではないか。
 お金は「手に入れる」ものであり、「自分のものにする」ものです。同じように真理も「手に入れる」ものでしょうか。なるほどニュートンの「万有引力の法則」でしたら「手に入れる」あるいは「自分のものにする」と言ってもよさそうです。
 学校でこの法則について教わりました。なぜ月は地球の周りを回っているのか、どこかへ飛んで行ってしまわずに、いつまでも地球から離れないのかと言えば、それは月と地球との間に引力という力が働いているからだと。いや、もっと身近なところで言えば、手を離すとものが落ちるのは、そのものと地球とが引き合っているからだよ、と教えられました。
 それを聞いて「あー、そうなのか」と合点しました。引力の大きさは、ふたつの物体の質量の積に比例し、物体間の距離の2乗に反比例するということを会得してからは、試験にどんな問題が出されても間違いなく正しい答えを出せるようになります。

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