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仏が法を悟るのではなく [生きる意味(その117)]

(21)仏が法を悟るのではなく
 仏教では真理を法(ダルマ)と言います。そして法を悟った人を仏(ブッダ)と言います。釈迦はその意味の仏で、これはもう常識的なことです。
 でも、そんなふうに仏(釈迦)が法(縁起)を悟るとしますと、仏と法とが引き離されてしまわないでしょうか。こちらに仏がいて、あちらに法があるというように。仏がこちらからあちらに行って、法を手に入れるというように。
 すでにお話しましたように、「みんなひとつにつながりあっている」という悟りの場合、悟りの主体と客体を分けることはできません。分けた途端に悟りの内容が変質してしまうからです。悟りの主体が「みんなひとつ」の「みんな」からはみ出てしまい、「みんなひとつにつながりあっている」のではなくなってしまうからです。
 こんなふうに仏と法を分けることができないとなりますと、仏とは法を悟った人であるいうごく普通の見方を手直ししなくてはなりません。どのように?仏が法を悟るのではなく、法が法を悟る、とでも言うしかありません。
 どこかに「法がある」のではなく、すべてが「法である」のです。「すべてひとつにつながりあっている」ことが法ですから、そのことが法であるだけではなく、それに気づくことも法ですし、それに気づいた釈迦も法です。すべてが「法である」のです。としますと、仏とは一体何でしょう。もう仏なんていらなくなってしまいます。

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