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ぼくが「生きる意味」を感じるのではなく [生きる意味(その127)]

       第5章 「生きる意味」は燦燦と降り注いでいる

(1)ぼくが「生きる意味」を感じるのではなく
 これまでの議論を振り返っておきましょう。深いため息とともに漏れてくる「生きていることに意味なんてあるの?」という問いがナンセンスでないとすれば、それは「生きていることに意味が感じられないのだが、どうしてだろう?」という悲痛な声に他ならないと考えました(第3章)。
 この深刻な問いに答えるために、「生きる意味を感じる」とはどういうことかを検討してきたわけです。結論を一言で言いますと、ぼくが生きる意味を感じているのではなく、生きる意味がぼくという<場>で感じられている。あるいは、世界がぼくにおいて生きる意味を感じているとでも言うべきだと考えました。
 もう主体も客体もなく、世界が生きる意味を感じている。そのことを縁起の法で考えてきました。釈迦が縁起の法を悟ったのではなく、世界が釈迦という<場>で縁起の法を自覚したのだと。釈迦が縁起の法を掴み取ったとすれば、釈迦自身は縁起の法からこぼれおちてしまうからです(第4章)。
 このように、ぼくが生きる意味を感じているのではなく、世界がぼくという<場>で生きる意味を感じているのだとしますと、「生きていることに意味が感じられないのはどうして?」という問いにはどんな意味があるでしょう、そしてその問いにどんな答えを用意できるでしょう。


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