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『歎異抄』の一節 [生きる意味(その128)]

(2)『歎異抄』の一節
 もし、「ぼく」が生きる意味を感じているのでしたら、誰かから「きみは生きる意味を感じているかもしれないが、ぼくは感じられないよ」と言われたら、もう何も言うことばが見つかりません。でも、生きる意味がぼくという<場>で感じられているが、きみという<場>では感じられていないということでしたら、これには何かが言えるように思うのです。
 『歎異抄』の一節が思い出されます。『歎異抄』にはぼくをひき付けてやまない箇所がたくさんありますが、ここもぼくの大好きなところです。
 「ある時、“唯円房はわたし(親鸞)の言うことを信じるかね”と言われましたので、“もちろんです”と答えましたところ、“ではわたしの言うことに背かないかね”と重ねて言われますので、謹んで承諾いたしましたら、こんなことを言われるのです。“たとえば人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず往生できる”と。わたしは“仰せではありますが、わたしの器量では一人も殺せるとは思えません”と答えたのですが、“ではどうしてわたしの言うことに背かないなどと言ったのだ”と言われ、さらにこう続けられました。“これで分かるだろう、何事も心のままなら、往生のために千人殺せと言われたら殺せるだろう。しかし一人といえども殺す縁がないから殺せないのだ。自分の心がよいから殺さないのではない。また逆に殺そうという気がなくても百人千人殺すこともあるだろう”とおっしゃったことでした。」
 ここに「縁」が出てきます。


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