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「自分」がポトリと [生きる意味(その136)]

(10)「自分」がポトリと

 確かに、ぼくの「自分」はもうかなり熟していたのです。そこへ「先生ごめん」で、ぼくの「自分」がぽとりと落ちた。この風がなければ意外にしぶとく枝についたままだったかもしれません。その意味では「先生ごめん」の風に運命的な力を感じざるを得ないのです。
 柿の実がぽとりと落ちるには、柿の実自身がしっかり熟していなければなりませんが、それに加えて一陣の風が必要なのです。
 「自力と他力」と言います。禅は自力だが、浄土は他力だと。しかし、果たしてこのような分け方ができるかどうか。「カーン」で気づきに至った禅僧にとって、気づきは「カーン」とともにどこかからやってきたのではないでしょうか。自力で気づきに至ったというよりも、何か不思議な力で気づかせてもらえたという感じではないか。とすれば、阿弥陀仏の誓願の力で救ってもらえると説く浄土とどう違うのでしょうか。
 浄土の他力にしても、阿弥陀仏による救いを説くからといって、「機」の重要性に盲目ではありません。阿弥陀仏の誓願は、それに気づかなければ、どこにも存在しません。そして気づきには機が熟さなければなりません。いくら風が吹いても、柿の実が熟していなければ、ぽとりと落ちることはありません。
 とすれば、禅も浄土もそれほど違いがないということになります。どちらにしても気づきは向こうからやってくるのです。


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