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「生きているのは、もはや、わたしではない」(パウロ) [生きる意味(その142)]

(16)「生きているのは、もはや、わたしではない」(パウロ)

 プラトンの想起というのは、美しい花を見て、美のイデア(故郷)を想起するのですが、とは言っても、美しい花を見ることが原因で、美のイデアを想起するという結果が生まれる訳ではないでしょう。美しい花を見ることはきっかけに過ぎません。
 それがきっかけとなって、「自分」がぽとりと落ちるのです。そして落ちた「自分」の向こうに美のイデアが姿を現す。「自分」が美のイデアを想起するのではありません。「自分」はもう落ちているのです。とすれば、イデアがイデアを想起すると言うべきでしょう。
 「自分」が落ちるということは、「意識」が崩れることに他なりません。そして「意識」の割れ目から「無意識」が姿を現すのです。「自分」がぽとりと落ち、「意識」が崩れるなどと言いますと、精神が壊れることかと思われかねませんが、それは違います。
 しかし何が違うのかと言われるとなかなか難しい。分裂病患者が「ぼくはキリストだ」と言うのと、パウロが「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのだ」と言うのと、どこが違うのかを言うのは困難です。
 ユングは「意識」の中心としての「自我」と、「無意識」も含めた心全体の中心としての「自己」を区別しましたが、それを使わせてもらいますと、分裂病患者は「自我」が壊れてしまって途方に暮れているのに対して、パウロは「自我」から降りて「自己」に移行したと言えるのではないでしょうか。
 ただ、ユングは「自己」を「無意識」も含めた心全体の<中心>とするのですが、これを<場>と言うべきではないかと思います。心に中心はないからです。いや、すべてが中心と言うべきでしょう。「意識」の<中心>は「自我」ですが、その「自我」がぽとりと落ちて<場>としての「自己」が開けるのです。


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