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ぼくがいのち [生きる意味(その144)]

(18)ぼくがいのち

 ぼくとお金が別ものであっても一向に困りませんが、ぼくと「いのち」が別ものだとしたら一大事です。やはり「ぼくのいのち」があるのではなく「ぼくがいのち」です。「きみのいのち」があるのではなく「きみがいのち」です。
 「ぼくの肝臓」という言い回しは自然です。「ぼくの肝臓」等を取り去って、他人の臓器を移植しても、ぼくはぼくとして生きていけますから。このように、ぼくとぼくの臓器とは切り離せますが、ぼくと「いのち」は切り離せません。ですから、ぼくが「ぼくのいのち」を所有しているのではなく、「ぼくがいのち」と言うべきです。きみが「きみのいのち」を所有しているのではなく、「きみがいのち」です。
 さて、しかし、「ぼくがいのちで、きみもいのち」というのは、どういうことでしょう。それは、「ぼくは人間で、きみも人間」と同じ種類の文でしょうか。
 いや、そうじゃありません。「ぼくは人間」というのは、ぼくは人間としての性質、特徴を持っているということですが、「ぼくはいのち」というのは、ぼくが「いのち」としての性質、特徴を持っているということではありません。「いのち」は肝臓のような「もの」ではありませんでしたが、人間のような「性質、特徴」でもありません。それは、「生きている」ということ、この世に「いる」ことです。
 「ぼくがいのちで、きみもいのち」というのは、イメージ的に言いますと、大海の水を手で掬い上げ、そこから零れ落ちるしずくを「ほら、これは海水だよ」と言い、次に滴り落ちるしずくを「これも海水だ」というようなものです。


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