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承元(じょうげん)の法難 [『末燈鈔』を読む(その2)]

(2)承元(じょうげん)の法難

 親鸞は35歳のとき、法然門下を襲った承元の法難で越後に流罪となり、それが赦免されたのちも越後に留まり、さらに常陸の国に向かいます。妻・恵心尼や子どもを連れてのことです。一体どうして京に戻らなかったのか、親鸞という人は自分のことをほとんど書き残しませんでしたので、その理由はまったく分かりません。
 親鸞は主著『教行信証』の末尾に承元の法難について記録していますが(これが唯一の例外でしょうか)、そこに「これによりて真宗興隆の太祖、源空法師(法然)、ならびに門徒数輩、罪科をかんがへず、みだりがはしく死罪につみす。あるいは僧儀をあらため、姓名をたまふて遠流に処す。予はそのひとつなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」とあります。
 この「すでに僧にあらず俗にあらず」という生き方を流罪を許された後も貫こうとしたのではないか、それが京に戻ることなく東国で生きるという選択につながったのではないかと推測されます。こうして常陸の国を中心に各地に念仏道場がつくられ、親鸞の教えを喜ぶ念仏者たちが生まれていきます。
 さて20年という歳月を東国で過ごした親鸞は60歳の頃、京に戻ってきます。これまたどうしてかは想像するしかありませんが(一説では、東国で書き始めた『教行信証』を完成させるためと言われます)、ともあれ東国の多くの念仏者たちと遠く離れて暮らすことになったわけです。
 こうして親鸞は、経済的な支えをそれらの人たちに仰ぎながら、念仏を巡るさまざまな質問を受けることになります。親鸞はそれらに返信をしたため、丁寧に答えているのです。第9通目の書き出し、「御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。さてはこの御不審、しかるべしともおぼえず候」などにそれが伺えます。


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