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居心地の悪さ [『末燈鈔』を読む(その7)]

(4)居心地の悪さ

 四門出遊というよく知られた説話から想像してみますに、釈迦という人は生きること自体に何か「居心地の悪さ」を感じていたのではないでしょうか。
 東の城門で見るも哀れな老人と出会い、南の城門では息も絶え絶えの病人と出会うのですが、そんなときにどうしようもない息苦しさを感じたと思うのです。よく言われますのは、自分もまたいずれあのような老人や病人になると、世を儚んだということですが、そんな単純なことでしょうか。あの人はあんなに老いさばらえ、またあの人は病に苦しんでいるのに、自分はこんなふうに美味しいものを食べ、健康に生きていていいのかと煩い悩んだのではないか。
 あの人が老いさばらえ、またあの人が病に苦しんでいるとしても、自分に責任があるわけではありません。もっと言えば、美味しいお魚が自分に食べられるために食卓にのっているとしても、それは自分の責任ではないでしょう。でも、何か居心地の悪さがある。自分は生きんとして、そのためにこのお魚は犠牲にされる。そんなことをいつも意識しているわけではありません。でも、どこかで負い目となり、それが息苦しさとなっているのではないでしょうか。
 これが煩悩です。どこかに煩悩なるものがあるのではありません、それを煩い悩む人にはじめて煩悩は姿を現わすのです。そしてそれが「救われていない」ということです。としますと、往生するとは「楽しみの極まる世界」へ行くことではありません、素晴らしく美味しいお魚が食べられることではありません。この居心地の悪さから解放された「涅槃寂静の世界」へ行くことです。それはこの世を生きている間は無理です。この世を生きている以上、お魚を食べなければならないからです。


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