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「いま」の安心 [『末燈鈔』を読む(その8)]

(5)「いま」の安心

 生きることの居心地の悪さから解放されること、これが往生(救い)のイメージです。しかし涅槃寂静の世界へ行くのは、いのち終わったあとだとしますと、往生はやはり臨終のときとならないでしょうか。こうしてまたスタート地点に戻ってきます。
 さて浄土に往生できるのはどうしてでしょう。言うまでもなく本願力のおかげです。そしてそのことを教えてくれるのも本願力です。これが「賜りたる信心」ということです。あるときふと本願力に遇う(会おうとして会うのではありません、思いがけず遇うのです)、これが信心をえるということです。この名状しがたい瞬間についてはまたお話することになりますが、ともあれ本願力に遇い、信心を得たそのときに往生が定まるということ、これが当面の問題です。
 本願力に遇うとは、「いのち終わったあと、浄土に往生できる」と気づかせてもらうことに他なりません。そしてその気づきのとき直ちに「摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す」と親鸞は言います。摂取不捨とは本願力に包み込まれて、もう見捨てられることはないということ、そして正定聚のくらゐとは仏になることが約束された位ということですが、そのときこそ勝負であり、したがって臨終を待つことも、来迎をたのむこともないと言うのです。
 往生するのは「いのち終わったあと」でも、そのことに気づかせてもらうのは「いま」であり、その「いま」に安心(あんじん)があるということ、ここに親鸞浄土教の眼目があります(それを真宗では「現生正定聚」と言います)。しかし、往生という「これから」のことに「いま」気づく、ここには何か頭をもやもやさせるものがあります。その「もやもや」を、「すっきり」とまではいかなくても、「ほどほど」には晴らしたいと思うのです。


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