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気づくということ [『末燈鈔』を読む(その9)]

(6)気づくということ

 親鸞が「本願を信じる」というのは「本願に気づく」ことに他なりません。そして「気づく」というのは、自分から気づこうとして気づけるものではなく、あるときふと「気づく」ということです。「ああ、あなたでしたか、気づかなくて失礼しました」と言うとき、あなたがそこにいることに思いかけず気づいています。
 これが「気づく」ということです。
 まず、気づくのは「いま」しかないということ。「いつやるか、いまでしょ」ではありませんが、「いつ気づくか、いまでしょ」と言わなければなりません。「気づく」のありようとして本質的に「いま」しかないということです。「昨日あることに気づいた」とは言いますが、これも昨日のある時点において「いまふと気づいた」ということです。
 気づきは事後的であると言っても同じです。あることに気づいてはじめて気づいたことになるのです。だから「あす気づくだろう」はどうにもおかしい。気づきは予測できないのです。その点「くじ引き」と同じです。くじは引いてみてはじめて当たりか外れかが判明します。事前に「これを引けば当たるだろう」と予測することはできません。もし予測できるとすると、そのくじはインチキです。
 さてしかし、気づくことがらは「これから」のこともあります。何かを「予感する」と言いますが、それは「これから」のことの兆しを「いま」感じるということです。鯰が地震を予知できるのがほんとうだとしましたら、ぼくらには感じとれない地震の兆しを彼らは「いま」感じとっているということです。感じるのはあくまで「いま」です、でも感じていることは「これから」のこと。

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