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あとの祭り [『末燈鈔』を読む(その19)]

(16)あとの祭り

 念仏を巡る「AかBか」という多くの問答のなかで、そのおおもととなるのが「自力か他力か」でしょう。これもしかし「自力でなければならないか、それとも他力でなければならないか」ということでしたら、「一念か多念か」と同じく、その問い自体に問題があると言わなければなりません。
 「自力でなければならない」という言い回しには、どこもおかしいところはありませんが、「他力でなければならない」は、どうにもいかがわしい。
 どうしてかと言いますと、「ねばならない」ことはみな自力だからです。ぼくらは「ねばならない」世界に生きています。一日にどれだけ「ねばならない」と言うことでしょう、また人から「ねばならない」と言われることでしょう。そのように言い、言われるということは、ぼくらは自力の世界にいるからです。
 ところが他力は「ねばならない」ことではありません。他力は、気がついたときには、もうそこにあるのですから。
 自力とは、まずもって「わたし」がいて、しかるのちに「わたし」が何かをするということです。ところが他力とは、まず他力があり、しかるのちに「わたし」がそれに気づくということです。「わたし」は他力に遅れをとります。もう本願はやってきていて、しかるのちに「わたし」がそれに気づくのです。
 まず「わたし」がいて何かをするとき、こうしなければならない、ああしてはならないと、さまざまにはからわなければなりません。でも、まず他力があり、しかるのちにそれに気づくときは、こうしなければならないも、ああしてはならないもありません。すべては「あとの祭り」です。


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