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それにしても化とは何か? [『末燈鈔』を読む(その21)]

(18)それにしても化とは何か?

 真と化についてはすでに述べました(12)。真とは「本願に気づく」ことですから、その反対の「本願に気づいていない」は偽ではなく化であると。
 浄土の教えのなかでも、選択本願の教えだけが真であり、それ以外の教えは化であることになります。浄土宗以外の教え(第3段で出てきました禅宗・真言宗・天台宗・華厳宗・三論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗など)はもちろん化です。かくして「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」という結論になります。仏教とはつまるところ本願念仏の教えであり、それ以外はすべてそこへ導くための方便にすぎないという宣言です。
 それにしても、化(方便)とは何でしょう。化と言うときに、「それは真ではない」という面と、「それは偽ではない」という面があります。
 「それは真ではない」と言うときは、否定的に見ています。この手紙の主題である「臨終の来迎」で言いますと、それは自力の行人の立場であり、真実信心の人にはあてはまらないと否定的に言います。しかし同時に、「それは偽ではない」として肯定的に捉えているのです。「臨終の来迎」を求める自力の行人のために第十九の願が用意されているとして、あくまで真に至る途上にあるものと包み込んでいます。
 このように否定しつつ肯定する化の思想は懐が深いと言わなければなりません。
 ぼくらは誰かと対立するとき、お互いに「われは真、なんじは偽」としてしまい、対立がますます深まっていくものですが、対立があるということは、どちらも化ではないかと己をふり返ることが必要ではないでしょうか。こちらにも至らぬところがあるに違いないと。所詮「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と思えば、怒りの氷も解けてくれるものです。


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