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「わがみをたのむ」ということ [『末燈鈔』を読む(その25)]

(4)「わがみをたのむ」ということ

 さて本文です。浄土の教えの根幹と言うべき自力と他力について、その要点をズバリ突いています。
 自力とは「わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもて」浄土へ往生したいと願うことであり、それに対して他力とは「念仏往生の本願を信楽する」ことだと。そして「如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とす」と言います。ここに自力・他力は言い尽くされているのですが、あまりに短く凝縮されていて、それがために誤解の種となりかねません。
 「わがみをたのむ」と「本願を信楽する」。
 これを「わがみをたのむ」と「本願をたのむ」に置き換えますと、さらに分かりやすくなるでしょうが、それだけ誤解の危険は高まります。そもそも「たのむ」のは「自分」ではないでしょうか。「わがみ」を「たのむ」にせよ、「本願」を「たのむ」にせよ、「たのむ」のはこの「わたし」です。
 かくして「本願をたのむ」のも自力と言わざるをえません。
 よく「他力本願ではダメ」と言われます。その意味するところは明らかで、他人の力を当てにしてはいけません、自力でやらなくちゃ、ということです。この場合の「他力本願」とは「自力のなかの他力」とでも言うべきで、あくまでも自力という土俵の上で他力をたのむことです。他人の力を当てにして、何かをゲットしようとしているのですから。どんなやり方をするにせよ、何かをゲットするのは自分です。
 生きるということは、何かをゲットすることに他なりません。衣食住をゲットし、愛と信頼をゲットし、健康と老後の安心をゲットし、などなど。としますと、生きることはすべて自力であるということになりますが、さてでは他力はどうなるのでしょう。「本願を信楽する」とはどういうことでしょう。


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