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「本願を信楽する」ということ [『末燈鈔』を読む(その26)]

(5)「本願を信楽する」ということ

 何かをゲットするのが自力であるのに対して、何かにゲットされるのが他力です。ふと気がついたら、何かにゲットされていた、これが他力です。「何か」と言いますのは、もちろん本願のことです。本願(「帰っておいで」)にゲットされていることにふと気づく、これが他力ということです。
 何かをゲットするとしますと、まずもって「わたし」がいなければなりません。「わたし」が何をゲットしようかと思案し、あるものをゲットしようと決断し、しかるのちにそれをゲットします(あるいは失敗します)。でも、本願にゲットされるときは、まずもって本願にゲットされ、しかるのちに「わたし」がそれに気づきます。「わたし」は本願に遅れをとるのです。
 「本願を信楽する」とは、まずもって「わたし」がいて、しかるのちに本願を信じるのではありません。まずもって本願に包み込まれ、しかるのちに「わたし」がそれに気づくのです。まず「わたし」がいるのでしたら、本願を信じるか、それとも信じないかを選ぶことができます。しかし、まず本願に包み込まれるのですから、もう選ぶも選ばないもありません、気がついたときにはすでに信じているのです。
 本願にゲットされると言い、本願に包み込まれると言ってきましたが、それは一体どういう事態なのか。
 これを言うのは独特の難しさがあります。といいますのは、本願に包み込まれるという事態は、それに気づいてはじめて存在するようになるからです。気づいていない人にはどこにも存在しません。いや、存在しないと言うこともできない。気づいている人にはもう説明の必要もありませんが、気づいていない人には、どう説明しても「何、それ?」となってしまうのです。


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