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恋の切なさ [『末燈鈔』を読む(その27)]

(6)恋の切なさ

 ぼくが譬えとしてよく使うのは「恋の切なさ」です。百人一首に「あひみての、のちのこころにくらぶれば、むかしはものをおもはざりけり」という歌がありますが、恋の切なさに気づく前(むかし)と、気づいた後(のちのこころ)を比較して、「ああ、むかしはのんきなものだったなあ」と詠嘆しています。
 恋の切なさに気づいた人には、もう説明はいりません。でも気づいていない人にどれだけ手を尽くして分かってもらおうとしても、「何、それ?」でしかありません。だって、そんなものは世界のどこにも存在しないのですから。いや、存在しないとも言えません、ただひたすら気づかないだけ。
 でも、どうしてそれが独特の難しさなのか、という疑問がでるかもしれません。どんなことでも、それをすでに知っている人には説明の必要はないが、まだ知らない人は「何、それ?」となるのではないか、と。たとえば親鸞という人。よく知られているとは思いますが、知らない人には「誰、それ?」でしょう。
 しかし、知ることは、まだ知らない人に教えることで知ってもらうことができます。「親鸞という人はね、かくかくしかじかの人でね」と教えられて、「へー、そーなんだ」と知ることができます。しかし、気づくことは、まだ気づいていない人に教えるわけにはいきません。「恋の切なさというのは、かくかくしかじかのことでね」と教えられても、「へー、そうか」と気づくことはできません。
 これが独特の難しさです。子どもに「恋の切なさって何?」と聞かれても、「まあ、その時期がくれば分かるよ」としか言えないのはそういう事情があるのです。本願に包み込まれるということも同じで、それがどのような事態なのかを説明することにはどうにもならない難しさがあります。


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