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妙好人(みょうこうにん) [『末燈鈔』を読む(その28)]

(7)妙好人(みょうこうにん)

 しかしそれじゃ困るよ、と言われることでしょう。浄土の教えの要である「本願を信楽する」ことについて、それがどういうことかを説明するのは困難だというのは、何か逃げているような印象を与えかねません。それではというので、『無量寿経』にはこう書いてあると経文に頼ろうとしてもうまくいくとは思えません。それは恋の講釈と同じで、本願とは何かを「知る」ことではあっても、本願に「気づく」ことではないからです。
 ではどうすればいいのか。「本願を信楽する」とはどういうことか(What)を説明できなくても、どんなふうにしてか(How)を言うことはできるのではないでしょうか。
 涅槃経にこうあります、「また(信に)二種あり。一には道あることを信ず。二には得者を信ず。このひとの信心、ただ道あることを信じて、すべて得道のひとあることを信ぜず。これをなづけて信不具足とす」と。本願の道があることを信じても、その道を歩む人がいることを信じないのは片手落ちだということですが、その言い方を借りますと、本願の道そのものについては語れないとしても、その道を歩む人については語れるのではないか。
 こう言ってもいい。その人が何を信じているのかを言うことはできなくても、どんなふうにして信じるようになったかを語ることはできる、と。人によってその事情は異なりますから、ある人はこんなふうに本願に気づき、またある人はこんなきっかけで本願を信じるようになったと語るしかありません。そして、ある人がかくかくしかじかの経緯で本願に気づいたとしても、自分が同じようにして気づけるわけではありません。何度も言いますように、気づきは事後的ですから、どのようにしてと言うことはできないのです。
 妙好人について書かれたものを読んだからといって、何かに役立つわけではありませんが、どんなふうにして本願が届くのかはこころに刻まれます。


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