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十方の諸仏って誰のこと? [『末燈鈔』を読む(その35)]

(14)十方の諸仏って誰のこと?

 愚かなわれらは釈迦のことばだけでは本願念仏を信じないかもしれないから、十方恒沙(恒は恒河つまりガンジスのことで、沙はその砂。ガンジス河の砂の数ほど無数の、ということです)の諸仏がその証人となってくださるというのですが、この無数の仏たちというのはいったい誰のことでしょう。
 ここで頭に浮かぶのが第17の願です。親鸞にいたるまでこの願はあまり注目されてこなかったように思われます。法然の『選択本願念仏集』でも第17願にはまったく言及されていません。しかし親鸞はこの願に重きをおきます。これを第18願と一体として捉えようとするのです。
 ともあれその願文をあげておきましょう。
 「たとえわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称えずば、正覚を取らじ」(わたしが仏になるとしても、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしをほめたたえて、わが名を称えないようなら、わたしは決して正覚をとりません)。
 正直に告白しなければなりません。ぼくはこれが『教行信証』行巻の冒頭に置かれる意味が腑に落ちませんでした(『教行信証』では、行巻に17願、信巻に18願、証巻に11願というように、依拠する願が冒頭に掲げられます)。われらではなく諸仏が弥陀の名を称えるということがどういう意味をもつのかピンとこなかったのです。
 「なむあみだぶつ」は「われら」が称えるものという固定観念に縛られていたのです。親鸞はその固定観念を壊そうとしているのだと気づいたのは大分たってからのことでした。「なむあみだぶつ」は向こうから聞こえてくるのだということ、これにはたと気づいて、そうか、「なむあみだぶつ」は「われら」が称えるのではなく、諸仏の「なむあみだぶつ」の声がぼくらに届くのだと、目からうろこが落ちたのです。


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