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あらためて現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とは [『末燈鈔』を読む(その41)]

(2)あらためて現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とは

 この手紙は前置きもなしに、いきなり「信心をえたるひとは」と始まります。この手紙のテーマは「等正覚とはどういうことか」で、「それは正定聚のくらゐに他ならない」と真っ先に結論が述べられます。正定聚については1章のところでかなり詳しく述べましたが、親鸞浄土教の要になることですから、あらためてポイントを押さえておきましょう。
 正定聚とは、往生成仏することが〈正〉しく〈定〉まった〈聚(ともがら)〉という意味で、必ず往生成仏できると約束されたということです。往生成仏するのはいのち終わったのちのことですが、正定聚のくらゐにつくのは今生ただいま、信心をえたそのときであるということ、これが親鸞浄土教の〈つぼ〉です。
 これは一見、経文をどう解釈するかという瑣末な問題にみえるかもしれませんが、実は仏教を、いや、宗教をどう捉えるかの根幹に関わる本質的なことがらです。それをひと言で言いますと、救いは「これから」ではなく「いま」にしかないということです。救いは来生にあるのではなく、今生ただいまにしかない。
 親鸞と同時代の人に道元がいます。親鸞が東国から京に戻った頃、若き道元は同じ京・深草の興聖寺にいたのです(越前の永平寺に移る前のことです)。その道元に「修証一等」ということばがあります。坐禅という「修」と悟りという「証」は別ものではないというのです。
 彼は『正法眼蔵』「弁道話」でこう自問します、悟りをひらけばもう坐禅の必要はないのか、と。そしてこう自答します、その考えは悟りと坐禅を別ものと考えているが、両者は同じ(一等)である、と。「これから」先にある悟り(救い)をめざして「いま」坐禅するのではなく、坐禅している「ただいま」にしか悟りはないということです。


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