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等正覚(とうしょうがく)とは [『末燈鈔』を読む(その42)]

(3)等正覚(とうしょうがく)とは

 さて等正覚とは何かです。それは正定聚のことだとまず結論を述べ、次いでそれを経典で確認します。
 『無量寿経』の第11願(必至滅度の願とよばれます)はこうです、「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ(わたしが仏になるとき、わたしの国の人々が正定聚の位につき、必ず悟りにいたらないようなことがありましたら、わたしは悟りをひらきません)」。
 一方、『無量寿如来会』という『無量寿経』の異訳―『無量寿経』は康僧鎧(こうそうがい)の訳とされますが、こちらは菩提流支(ぼだいるし)の訳です―ではこうです、「もしわれ成仏せんに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなり、大涅槃を証せずば菩提をとらじ」。これで「その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚はひとつこゝろ、ひとつくらゐ」であることは明らかでしょう。
 ところで等正覚とは、仏の悟りである正覚に等しいということで、菩薩としては最上位に当ります。修行の位階は52位あり、1から10位までを十信、11から20位までを十住、21から30位までを十行、31から40位までを十回向、41から50位までを十地といい、そして51位が最高の等正覚で、その上はもう仏の正覚です。
 これをみますと、菩薩道を歩もうとする人の前には、ため息が出るほど長い階段が待っていて、それを一段一段上がっていかなければならないことが分かります。としますと、信心をえたそのとき直ちに正定聚すなわち等正覚の位につくというのは、この階段を一足飛びに最上段まで跳ね上がるということで、そんな破天荒なことがありうるのかという疑念が生じるのも無理からぬものがあります。性信房の質問もそのようなことではなかったでしょうか。


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